周瑜の記憶が失われてから10日が経過した。
記憶が戻る気配はないが、周瑜も周囲もこの状況に慣れ、問題なく日々が過ぎていく。
再編成の案が挙がっていた周瑜隊は、そのままの編成で形式上は孫策隊に組み込まれることで落ち着いた。
そのため周瑜は、兵錬があるときは孫策と行動を共にしていたが、
それ以外は、軍師や文官達から必要な情報や知識を得ることに時を費やしていた。
始めは頼りない風情を醸し出していた周瑜も、日々生き生きとして行く。
周瑜の飲み込みの早さに、一月もすれば以前と遜色ない働きを期待できそうだと言われていた。
今は、内政に関することを知りたいと、張昭の補佐をしていた。
孫策は庭の木の上で、ぼんやりと屋敷の方を眺めていた。
ここからだと、張昭が仕事をしている部屋が垣間見える。
この数日、周瑜が一番出入りしている場所だ。
だから、暇さえあればこの木の上で過ごしていた。
でも、今はあの部屋に、周瑜は居ない。
少し前に部屋から、周瑜が出て来るのを見た。
資料を抱えどこかへ運んで行く様だった。
そろそろ戻ってくるような気がして、周瑜が向かった方の廊下をぼ〜っと見ていると、周瑜が早足で戻ってきた。
何かに追われてでもいる様に、余裕のない様子で歩いて来る。
部屋の手前まで来ると、入室を躊躇うように立ち止まった。
近くの柱に身体を預け、口元を手で覆う。
俯いたまましばらく動く気配がなく、気分が悪いのだろうかと心配になる。
孫策は、こっそり覗いていたことも忘れて、木から飛び降りると周瑜へと駆け寄った。
「公瑾!!大丈夫か?」
「伯符さま!?」
突然現れた孫策に驚き、周瑜が顔を上げる。
孫策は周瑜の頬に触れ、優しく尋ねた。
「どうした?具合でも悪いのか?」
「いいえ。何でもありません。」
一瞬、周瑜と目が合ったが、直ぐに逸らされてしまう。
とても、何でもないようには見えない。
もう一度、宥めるように優しく周瑜に問うた。
「本当に?」
「はい。何でも・・・・ありません。」
何でもないと応える度に、周瑜の表情が辛そうに歪む。
言えないような”何か”があったに違いないと確信した。
「公瑾。誰に、何をされた?」
「誰にも、何もされていません。大丈夫ですから。」
「大丈夫に見えねぇから、言ってんだよ。俺に嘘をつくな!!」
「嘘ではありません。本当に、何も・・・・」
孫策が少々語気を荒げても、周瑜は頑なに何でもないと繰り返すだけだ。
「公瑾・・・・」
「申し訳ありません。」
孫策が問う度に、周瑜が痛みを堪えるような顔をする。
周瑜に泣き出しそうな顔で謝られて、孫策は自分が周瑜を追い詰めているように感じてしまう。
仕方なく開放すると、周瑜がホッとしたように見えて、なんだか納得いかない。
「ご心配をおかけして、すみませんでした。」
再度謝罪を述べると、周瑜が逃げるように部屋の中へと消える。
周瑜の姿を見送る孫策の胸に、モヤモヤとした感情が残った。
周瑜は、張昭が孫堅に求められた資料を持っていくから少し席を外すと言ったとき、
自分が代わりに持っていくと申し出た。
ただ張昭を手伝いたいと思っただけで、他意はなかったはずだった。
でも、孫堅の執務室が近づくにつれて、足取りが軽くなるのを感じていた。
部屋の前まで来ると中は静まり返っていて、声を掛けても返答がない。
渡すだけで良いと言われていたから、不在なら置いて帰れば良いと判断し、扉を開けた。
しかし、孫堅は不在ではなかった。
返答が無かったのは、部屋に孫堅しかいなかったから、そして孫堅が居眠りをしていたから。
孫堅を起こさないように、そっと机に資料を置くと、立ち去ろうとした。
でも、何故か孫堅から目を離せなくなる。
窓から吹き込む穏やかな風が、孫堅の髪を揺らす。
触れてみたくて、孫堅の顔の半分近くを覆っていた髪をさらりと梳いた。
孫堅の寝顔を間近にして、ドキドキと胸が高鳴る。
引き寄せられるように、唇を重ねていた。
「・・・んっ・・・・」
「あっ・・・私は・・・何を・・・」
孫堅の唇から漏れた吐息に、弾かれたように身体を離した。
孫堅が起きてしまいそうな気配を感じて、慌てて部屋を出た。
自分の行動に混乱して、逃げるように早足で廊下を歩む。
気づいたら、元の部屋の前まで戻って来ていた。
中には、張昭が居るはずだから、取り乱したままの状態で入るわけにはいかない。
手近な柱に身体を預け、呼吸を整える。
無意識に、孫堅の感触を思い出して手が唇へと伸びる。
ああ、私は何を血迷っているのだろう。
孫堅の唇を盗んでしまうなんて、孫堅にも孫策にも合わせる顔がない。
「公瑾!!大丈夫か?」
だが、今一番会いたくない相手から、突然声を掛けられた。
探るように顔を覗き込まれ、後ろめたさに目を逸らす。
孫策に優しくされれば、されるほど胸が痛んだ。
こんな最低な自分のことを、本気で心配してくれる孫策。
罪悪感に胸が引き裂かれそうなのに、どこかで嬉しいと感じていた。
孫堅は、一人きりになった執務室でぼんやりと窓の外を見ていた。
先ほど、程普に”少々席を外しますが、さぼらないでください。”と釘を刺されたが、
窓から差し込む長閑な日の光と、穏やかな風。完璧な昼寝日和だと思う。
後で少々怒られたとて、この心地よさには代えられぬ。
そう自分に言い訳すると、机の上に上体を預け、目を閉じる。
心地よい風に誘われ、直ぐに眠気が襲った。
しばらく経ったのだろうか、人の気配がして目を覚ました。
程普が戻ってきたのかと思ったが、部屋には誰も居なかった。
目を覚ます直前に、接吻されていたように感じたが、気のせいだろうか?
何か変化は無いかと周囲を見ると、机の上に張昭に頼んでいた資料が届いていた。
口付けの相手は張昭か?と思ったが、まどろみの中で聞いた呟きの声が彼にしては若かったような気がした。
ということは・・・まさか・・・・
思い当たる人物は居たが、信じられなくてその考え頭の中から追い出そうと試みる。
取りあえず、届いていた資料を開いてみたが、内容が頭に入って来ない。
感触を思い出すように、指で唇をなぞる。
「ああ・・・困ったな・・・」
「何にお困りですかな?資料に不明な点がございましたか?それとも・・・誰ぞと口付けでも交わしましたか?」
独り言のはずだったのに、思わぬ返答が返ってきた。
いつの間にか、程普が戻ってきていたようだが、全く気が付かなかった。
しかも、余分なことまで見通されているらしい。
「寝ている隙に、公瑾に唇を奪われた様な気がする。」
「それは、困りましたな。」
「ふふっ、困ったぞ・・・悪い気がせんのだ。」
孫堅は、困ったと繰り返しながら嬉しそうに笑みを浮かべている。
相変わらず、指は唇に触れたままで、周瑜との口付けを反芻しているように見えた。
「殿!!」
孫堅の回想を断ち切るように、程普がバンと机を叩いた。
音に反応して顔を上げた孫堅の唇に、程普が唇を重ねた。
周瑜との触れるだけのものとは異なり、深い口付けが交わされる。
「はっ・・・ぁ・・・酷いな、公瑾との口付けの余韻に浸っていたというのに。」
「だからです。記憶喪失だけでもう十分。これ以上の面倒事は御免です。」
「公瑾のためなら多少の面倒事は受け入れても良いが・・・・」
「若と揉めても良いのなら、止めませんぞ。」
「・・・・・だから、困ったと言っているんだ。」
「ならば、お忘れになるべきかと。」
程普の指が、ゆっくりと孫堅の唇をなぞる。
「それは、お前が忘れさせてくれるということかな?」
孫堅の腕が程普の首に絡み、引き寄せる。
唇が、今にも触れそうな位置まで近づいた。
「殿のお望みとあらば。」
孫堅の唇に、再び程普の唇が重なった。
これで、唇に残る感触は忘れることができるかもしれない。
だが、嬉しいと感じてしまった想いは、簡単に誤魔化せるものではない。
せめて、口付けに気づいたということと、それを受け入れてしまう心の動きを、
周瑜には気づかれないようにしなければと思った。
つづきへ